岡田暁宜:当事者研究と精神分析|Researcher's Eye|三田評論ONLINE

 
中高の同級生が当事者研究で紹介されていた
先日、発刊された三田評論の2023年2月号のResearcher's Eyeという連続企画に私のショートエッセイが掲載(添付)され、本日(2023.2.22)、電子版の三田評論ONLINEでも公開されました。
私は慶應に着任して2年目ですし、私の専門の精神分析は精神医学や臨床心理学の傍流ですが、今回明治31年から続く慶應義塾の機関誌に寄稿する機会を与えていただき、ほんとうに感謝しています。
内容は、私が慶應SFCに着任してから学生さんたちとの交流を通じて関心を持ち始めた当事者研究に関するものです。自然科学と人文科学の”あいだ”にある精神分析は最近では大学に居場所はありませんが、有難いことに慶應SFCの多様性の中に加えていただいています。今後、学生さんたちと共に精神分析の立場から当事者研究について考えてみたいと思います。
岡田さん
ご無沙汰してます。  私の専門から当事者研究に対して関心を持っている段階ですので、まとまった話ができる段階ではありませんけれど、鈴木さんの領域はどんな感じでしょうか?
鈴木
領域的にはコーチングなのですが、 自己理解のために、内的対話を記録してもらっていて、 ベテルの家の当事者研究など読んでもらっているのですよ。 中には克明に記録している人もいて、岡田さんにとっても興味深いのではないかと思います。
岡田さん
コーチングですか、なるほどそれに向けた自己観察ということですね。
体育会の学生さんたちは、そういう方向のことに興味がある感じです。
私は直接は専門ではないのですが、コメントしたりします。
いかに意味のある気づきができるかということだろうと思います。
討論者なら可能かもしれません。
鈴木さんの活動は拝見しました。確かに接点はあるでしょうね。 時間が合えば、久しぶりにお会いしてもいいですね。ほんとご無沙汰ですね。
近年、当事者研究が注目されている。これは疾患や障害を抱える当事者が同じような経験をもつ仲間とともに、その機序や対処法などを研究する方法であり、発見(discover)を通じて、困難からの回復(recover)を目指している。Evidence-based medicineの時代において、専門家による専門知よりも当事者による経験知に光が当たることは興味深い。
精神分析は無意識の中に抑圧されている何かを解放し、心の自由を回復する実践であり、無意識の意識化を妨げている心の蓋をとる(uncover)ことを目指しているが、心の蓋が脆弱あるいは欠如している場合には、蓋をする(cover)ことが必要である。精神分析概念の中に自己分析という実践がある。これは自らの夢や自由連想を用いて1人で行う自己洞察の方法であるが、精神分析の終結後に分析者との分析過程の内在化とともに1人で行う実践でもあり、精神分析の目標といえる。
当事者とは、ある事象の直接的な関係者を意味しているが、精神分析における当事者とは、外的な意味だけではなく、体験者という内的な意味を含んでいる。自己分析は、1人の当事者による発見の作業であり、1つの当事者研究といえるだろう。精神分析は、分析者と被分析者の外的- 内的な交流に基づく、相互的で間主観的な発見の作業である。そこに分析者と被分析者という2人の当事者が常に存在するという点において、精神分析は1つの当事者研究といえるだろう。
人間は自らの身体の当事者であるが、自らの背中を直接見ることはできない。自らの主観や体験に基づく当事者研究では、当事者の主観や体験を客観視する第三者的視点が重要であり、それは同じような経験をもつ仲間との共同作業によって得られる。精神分析や自己分析において、実践の当事者として何かを発見するためには、当事者には見えない何かを観察する対象が必要である。
精神分析臨床の当事者としての経験を述べれば、近年、当事者の立場にあっても、当事者意識に欠けている人や何かを内的に体験できない人に出会うことがある。そのような人たちにとって、当事者になることは目標であり、当事者研究は1つの達成といえるだろう。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。