『愛することは技術であるので、先天的なものではなく能力開発するもの!』これを実現するためのコミュニティがHLDで、HLDはHuman Loving Development の略です。HLDというのは、「愛する」という広い概念を人間関係を円滑にし、一緒に成果をあげる行動として共有したいという願いからこの名称にしました。
産まれてきて、赤ちゃんの時から愛されるための努力を続けてきた私たち。その努力を続けて大人になっている人が多いように感じています。私もその一人です。赤ちゃんは自分で何もできないので愛されなければ生きていけません。なので、愛されることに一生懸命です。その努力を続けて大きくなっていくと、愛されたいが色んなカタチに変化していきます。そしてそれが無意識のうちの目的化してしまうことも。
認められたい、
評価されたい、
理解されたい、
それが行き過ぎていくと無意識のうちに
認めてくれるはず
評価されるはず
理解してくれているはず、
信用されているはず、
こういった思い込みの影響で、見返りが無かった時に極端に落胆してしまったり、怒りに変わって他者を傷つけてしまったり、と困ったことが起こっている人に向けたコミュニティです。
 
この困ったことは大小色々ありそうな気がしますが、この困った状況に陥っている人を観察していて気づいたのです。
この人たちは、無自覚に受け身(愛されたい)になっているのではないか?
その自分に気づき、能動的(愛する)な行動に転じることで解決できることが多いなと。
そのためにも『愛するということ=愛するという技術・スキル』を磨く必要があります。このコミュニティではエーリッヒ・フロムの『愛するということ』をテキストに愛する能力(Human Loving)を開発(Development)していくことを目的にしています。
 

HLDを知る前のストーリー

毛利さんは30歳(仕事は研修等の法人営業)の頃、その当時のY部長にほぼ毎日罵詈雑言を受けてきました。Y部長が赴任した頃は特に怒られることはなく、別の社員がよく怒られていました。
私は怒られたくないなぁと思いながらも、同じ高校出身ということや考え方もしっかりしているところから、Y部長が好きでどこかで認められたいと思っていました。
 
しかし毛利さんは思うように成果が上げることができず、
Y部長から
「毛利のスイッチが分からない」、
「お前は本当にやる気を持って仕事しているように見えない」、
「考えて仕事してるか?」、
「考えてるってこと分かっているのか?」、
「お前の提案では上手くいかない」、
「何考えてんねん!?」
 
という感じで、毎日きつく怒られるようになりました。毛利さんは怒られたくないので、怒られないために必死に努力をしましたが、どうやっても怒られ続けました。企画書を書いて持っていっても、見てもらう前に捨てられて、怒られる、こんな繰り返しでした。そして怒鳴りまくるY部長は、周辺のメンバーからパワハラだと言われ、立場が危うくなっていきました。
 
毛利さんはこれが嫌でした。「自分のせいで怒らせてしまっている」と思っていました。そのことをA課長に相談したら、「Yさんは今期で異動になるから、毛利はそのことを気にせずに、今期中にYさんが認めるような仕事をすることに集中しろ」と言われました。そのことを聞いて、怒られることを気にしている場合じゃないと、毛利さんの中で何かが変わりました。その後の仕事で作成した企画書を、Y部長に持っていったら、手に取って、中身を見る前に、これで行ってこいと言われました。何で見ないのかと思いながらも、そのままプレゼンに行ったら会心の出来でした。やっとY部長に認めてもらうような仕事ができたのです。
 
 
このストーリーは、毛利さんが仕事において仕事に目的を置いたのではなく、無意識の内に人から認められたい、怒られない、評価されたい、つまり愛されたい呪縛に囚われて、上手くいかなかったところから、目先が仕事(コトを成すこと)に向いたことで上手くいったケースです。
 
愛の能力開発に着手できていれば、もう少し早く辛い状態からいい状態になったかもしれません。こんな困った状況の人が何とかなってゆくコミュニティです。
 

HLDを考えるようになったストーリー

毛利さんは32歳で結婚し、38歳の時に第一子に恵まれました。
妻の実果さんは、子育てと仕事の両立はできないと思い、仕事を辞めることにして、実家近くに住みたいという希望を出しました。毛利さんは、正直、八尾に済むのは嫌でしたが、子どもが産まれてから、妻と喧嘩することも少し増えていて、これはこれまでない負担から来ているから妻の実家近くに行った方がいいだろうと思い、実家近くに良いマンションが見つかったということもあって購入することにしました。
毎日の生活の中で、ちょっとした喧嘩が絶えませんでした。冬になると日が暮れるのが早いのですが、毛利さんが家に帰ると洗濯物は干しっぱなし。毛利さんは「また、洗濯物干しっぱなし!」と帰ってすぐ、そういうことを言って、「忙しかったの!しんどかったの!他に用事がったの!」といった反論から言い争いになっていました。
毛利さんは、そういう喧嘩が嫌になって、ふと思うのです。「幸せになろうと思って結婚したのに、逆のことをわざわざしている。何でだろう?。そうか。自分が正しいということを相手に認められたいから言っちゃっているんだ」自分が正しいことを理解されたい、認めてもらいたい、思うように相手に動いてもらいたい、動かしたい、そういった愛されたい気持ちで一杯になっていたことに気づきます。
もっと言うと支配したいという気持ちまであったかもしれません。このことに気づいてから、妻も息子もニコニコ元気でいることが一番というように目的を置いて、行動を心掛けることができ、徐々に愛されたい呪縛から解放されて、愛すること(条件付きではない行動)ができるようになってきました。
 
このストーリーは、毛利さんが家庭において、自分の思い通りにしたい、妻から認められたい、評価されたいといった、無意識の愛されたい呪縛に気づき、本来の目的に立ち返ることができ、そこに向かって行動できたというケースです。常に本来の目的を念頭に置いておくことで、愛するという技術は磨かれていくもので、特に家庭(パートナーシップや子育て)は愛の習練の機会になると思います。
 

HLDを実践するようになったストーリー

誕生日が、44年間かけてわかったこと、できるようになったことが沢山あったなと振り返る機会になりました。
私は2022年1月から『愛するということ@エーリッヒ・フロム』をテーマにグループコーチングを実施しています。
1年以上このテーマで学び続けていることで、解釈、行動の更新がされていきます。これが楽しいのです。これまでは、『愛されたい』から『愛する』へ転換することで、いい方向に向かうという解釈をしていました。
これが少しずつ更新されて、今時点では、無自覚に愛されたいが強まると、条件付き愛が強化され、やったことに対する見返りを無意識に求めてしまい、その結果が得られないとネガティブに支配されてしまう。結果が得られたら、得られたで、より見返りを強く求めてしまい、より強引なアプローチをとり、人を傷つけることに繋がるかもしれない。
 
なので、
💡
愛されたい自分を自覚し、何を実現したいのかということに目先を変えて、そこに愛を注ぐことで、物事が好転していく、
こういう解釈に更新されてきました。
 
解像度が上がってきたという言い方かもしれません。こういう目で見ていると、何でもその観点で見ようとするので、「あ、この映画は愛するでいう尊敬を扱っているな」とか、「これは愛されたいに嵌っていくストーリーだな」と言った感じで、事例集めにもなったりしています。
 
ごく直近で、私は愛という言葉に恥ずかしさはほとんどなくなったのですが、やはり怪しく伝わってしまうこともあるようで、別の言葉にした方がいいという意見をコミュニティ内でも貰うことがありました。そこで、受け身になってしまう自分の癖(相手に気に入ってもらいたいから無意識の内に相手の正解を探して行動し続けるといったパターン)に気づき、自分で望ましい状態を描き、それに目を向け、行動を選択できるようになること、これくらいの説明がいいのではないかと考えています。
 
こういった学びのお陰で、妻に対して納得いかない要望をされた時も、すぐに反論しなくなりました。これは目先を『家庭がニコニコであること』に向けられたからだと思います。
 
以前の私であれば、自分の正当性を認めてもらいたい、認めさせたいから、すぐに反論、言い訳をしていました。そして喧嘩になっていました。そういう癖があったのです。
あとここ数年は私の誕生日の日に、母に「元気に産んで育ててくれてありがとう」と伝えられるようにもなりました。これは恥ずかしい、急にこんなこと言い出してどうしたんだろうと変に思われたくないなどの気持ちよりも、伝えたいという想いが勝るようになってきて、できるようになったのだと思います。
毎週、仲間と振り返ることをきっかけに、ちょっとずつですが、変化を積み重ねることができてきたのだと思います。45年目も沢山の発見、学びが家族・仲間と共にあると思います。今からワクワクです。本当に家族、仲間のお陰です。
 
本当にありがとうございます!そしてこれからも宜しくお願いします。
新たな仲間もどんどん増やしていきたいです^^
 
・・・あとがき・・・
コンセプト・モデル・ストーリーを磨くために、この広報文づくりに取り組みました。普段、思っていること、考えていること、そして話をしていること、こういうことを改めて文字にすることで磨かれることは分かっているのですが、それが面倒だったりします。
今回も初動は大変でしたが、仲間の後押しからこういう機会を頂き、文字にすることができました。
そしてこの体験からも学びがありました。
昔の私であればこの書いたものがどう評価されるのか、それが気になって、良い評価をされることが目的になってしまい、これを読んで感じたことを聞いても、良いか悪いかばかりに気を取られて、コンセプト・モデル・ストーリーを磨くことに繋げず、良い評価してもらうために、言い訳??みたいなことを沢山していたように思います。
 
それが今回は多少の緊張感はありながらも、いつも通りの自分で臨めていたように感じます。こういう場面でも自分の変化を感じることができました。
 
多くの人がとてもいいインプットを沢山できる時代になっていると思います。それがアウトプットしないままだと、折角したインプットが本当にやりたいことに繋がらずに消化不良になっていることが多いようにも感じています。面倒だなぁと思うところこそ、仲間の力を借りてアウトプットすると、自分の大切にしたい、やりたいことに繋がったり、新たな発見もあったりするなぁと感じています。
今回のこのあとがきも関戸さんからの後押しがあって書けています。書くのは自分一人ですが、書かせてくれるのは仲間なのだと思いました。「我々は孤独だ。でも一人ではない」という言葉を思い出しました。いつもありがとうございます!