櫻井 翔:「独立自尊」の気風が育んだ 嵐の20年|話題の人|三田評論ONLINE

 
──櫻井君と最初に会ったのは1999年、高校3年生の時でしたね。11月のワールドカップバレーボール大会のイメージキャラクターを「嵐」が務めていましたが、あの時は本当に大変でしたでしょう。
櫻井 そうそう、大変でした。嵐の他のメンバーは事前に会場に行っていましたが、僕は塾高の授業に最後まで出てから、1人で新横浜から仙台、大阪、名古屋に行って夜のバレーボールの試合を応援する。そして間に合えば深夜、間に合わなければ翌朝に戻ってきて学校に行く、という感じでした。
──前の晩、テレビに映っているのに、朝は1時間目にいる(笑)。「この人はよくやるな」と。そんな中で無遅刻無欠席を続けていた。
櫻井 学校側のご理解があったからだと思います。芸能活動を始めた普通部2年の時、学校側としては「それはご家庭の判断で」ということで、賛成も反対もないということでした。塾高も同じスタンスでしたが、何て言うのか、自由にさせてくださる、という意味では、認めてくださっていたのかなと理解していました。
──その通りですね。まわりの生徒たちもワイワイ見に来るとか、そういうのは一切ない学校だし。
櫻井 男子校で有り難かったですよ。キャーキャー言う人がどこにもいない(笑)。でも、高校3年間は大変申し訳ないことに、よく授業中に寝てしまうこともありました(笑)。
──僕の授業で、他の生徒が心配して起こそうとするんで、「櫻井君は皆にはできない体験をしている。これは彼にとって将来糧になることだから起こすな」と言いました(笑)。
櫻井 すみません、失礼な話です。
きつかったのは、高校3年と、大学の2、3年ですね。高校の時は、デビューしたばかりで、仕事のペースも分からない。でも学生だから学校を休むわけにはいかず、いわば初めての両立という意味で大変でした。
大学3年の時は、ちょうど後期の試験の時に、僕は初めて連続ドラマの主演もやらせていただいて、もう試験と丸かぶりだったので相当大変でした。高校、大学時代のその経験があるから、今、多少忙しくても、「あれを乗り越えたんだから」というのはありますね。
──櫻井君は幼稚舎から慶應に入り、普通部時代から仕事と両立させ、大学まで16年で留年をせずに卒業した。ご両親との「学校を休まない」という約束を有言実行したわけですね。
櫻井 そう言っていただけると嬉しいのですが、まあ、意地でしたよね(笑)。ジャニーズ事務所に入って芸能活動をするということは、当然、一部の先生や保護者の方々から多少なりとも良く思われていないところがあったと思うんです。その中で、どうしたら芸能活動を続けられるか。それは学生の本分である学業を疎かにしないことだと思いました。
それは、自分の親に向けてもそうです。大学に入る時も、「もし嵐を続けるんだったら、留年したら学費は自分で払え」と親には言われました。それは、留年したら芸能活動させてもらえない、ということだなと思いました(笑)。
ですから、意地だったのが半分。もう半分は本当に友達に恵まれていました。ノートを貸してくれたり、いろいろな面で本当に慶應の時の友達には恵まれています。
──大学生の時には早慶戦で会いましたね。皆と一緒に、学生応援席で応援している姿を見て、特に騒がれることもなく大学生活を謳歌しているな、と思いました。
櫻井 友達の彼女がチアリーダーでしたので、その子を応援しに行っていました(笑)。楽しかったです。自分がずっと慶應義塾にお世話になったお蔭だと思っています。僕みたいな仕事をしている人間は、やはり、物珍しく思われるので、大学から入ったら大変だったと思います(笑)。
だけど、有り難いことに昔からの仲間たちが時に守ってくれました。何より大学1年生の時は月曜日から土曜日まで授業を取っていたので、入学して最初の1カ月こそ、女の子が「櫻井、いるらしいよ」みたいな感じで見に来ましたが、「あいつ、毎日いるな」みたいな感じで別に珍しくもなんともなくなった(笑)。
卒業式の時の記者会見でも言いましたが、僕が尊敬しているのは体育会の人たちなんです。体育会の人は試験ギリギリまで毎日のように練習していた。そういう頑張り方には大きな影響を受けています。自分が生ぬるいことを言っていてはだめだと。

キャスターという仕事への考え

──キャスターを務められている「news zero」について伺いたいと思います。2006年からで、今年でもう足かけ15年ですか?
櫻井 そうです。週に1回の出演ですが、テレビ局のスタッフも含めて一番長くなりました。ニュースキャスターは、2001年の「9・11」で、一体世界に何が起きているんだろうと気になったことが、きっかけの1つです。なぜそもそもアメリカがそんな攻撃をされるのかが勉強不足で分からず、それを調べ始めたんです。
もう1つは、それこそ、有り難いことに親に慶應義塾に入れてもらった中で自分は芸能界に身を置いているから、という理由です。慶應義塾大学を出たということを、自分の仕事に還元できるものがあるのではないかと考えた時に、キャスターのような仕事ができるのであれば、と思ったんですね。
当時24歳でしたが、幸運にもそんなお話をいただけました。
──キャスターに関しては基本は独学ですか。やはり本を読んだり?
櫻井 いや、あまり本は読まないですね。もう「現場で学ぶ」という感じです。僕はいわゆるアンカーマン的に自分の主義主張や意見を言うという立場ではないと思っているんです。
キャスターの仕事を始めて間もない時に、福澤朗アナに「キャスターというのは名のとおり椅子に付いている回転するキャスターだから、人から人へ、テレビの中から視聴者へつなげていく役割なんだよ」と言われ、自分の中で、その言葉はストーンと入ってきました。「僕はあくまで被災地に行って、被災者の方の声を多くの人に届けよう」と。例えば働き方改革の話でも、僕は社会人経験がないからよくは分かりませんが、だからこそ「そんなことがあるんですね」と視聴者の人に伝えられるかもしれない。
そのように、自分は1つの声を、より多くの人に「伝える、つなげる」役割だと思っています。
──まさに慶應義塾の実学という感じですね。櫻井君は慶應義塾で幼稚舎から、「独立自尊」を教わった。そして、ジャニーズ事務所に入ると、「ショー・マスト・ゴー・オン」ですね。この2つに共通するところや響き合うものはありますか?
櫻井 難しいですね(笑)。ただ、他の何かを真似るのではなく、自分が自分であること、それこそ独立自尊かもしれませんが、そこは大事にしたいと思います。一方で影響は多分に受けていいとは思っているのですが、真似ではなくオリジナルであることが重要で大切にしたいと思っています。
──その姿勢は新しいものに挑戦していくことにもつながっていますね。ツアーではピアノも弾いたりもするんでしょう?
櫻井 本当に先生、よくご存じで(笑)。3歳ぐらいから小学3年生までエレクトーンを、4年生から中1までピアノを習っていたんです。30歳になった頃、せっかく子どもの時にやっていたので習い直したんですね。
ファンの人に喜んでもらい、一緒に歌ってもらうのが主な目的ですけど、少しだけ親への餞(はなむけ)という気持ちもありました。子どもの頃にピアノを習わせてくれた親に、30年後に東京ドームでピアノを弾く姿を見せることで、自分の中で整理がつくというか。
──本当に優しい心配りや気遣いができる人ですね。今日のネクタイは昨年お食事をした時に差し上げた塾高同窓会が作ったネクタイですが、早速その次の月曜日に「news zero」で締めてくれて。こういった人に対する心配りというのは、あまり習ってできるものではないですよ。
櫻井 本当にまわりの人に助けてもらいながら自分はやってきた、というところは大きいかもしれないですね。

国民的行事に臨む思い

──櫻井くんは、オリンピックが6大会連続メインキャスター、そして紅白歌合戦の司会をもう6年ほど務めている。そして昨年の天皇御即位の国民祭典と、本当にここのところ国民的行事には嵐が付き物ですね。プレッシャーはありますか?
櫻井 いや、プレッシャーとかはまったくないですね。基本的には光栄で、最大の誉れだなと感じるだけです。自国開催のオリンピックのお仕事をいただくとか、陛下の式典のお話を最初にいただいた時は、信じられないというか、事が大きすぎて実感がなかったですね。高校3年生の時には、想像もしなかった未来です。
──そうですよね。映画にも時々出られますが、僕は『神様のカルテ』が好きなんです。宮崎あおいと夫婦で、つつましやかでいいなあと。映画を撮っている時はグループ活動は少しお休みするんですか。
櫻井 いわゆるテレビのレギュラー番組は並行してやっています。僕らは芸能界においては、ある意味特殊で、基本的にはずっとテレビのレギュラー番組があり、かつ毎年ツアーもやらせてもらっている。あくまでグループ活動という土台があって、映画などもできるというところもあるんですね。
──そうすると睡眠時間も極端に少ない時もあるでしょう。年間に完全フリーのお休みなんてあるんですか。
櫻井 あまり多くはないですが、ありますよ(笑)。特に今は働き方改革ですからね(笑)。年齢もありますが、若い時とは違って、きちんと一定のペースで休みをもらっています。だから本当にいい働き方ができていると思います。
──今年の12月31日でグループは一旦休止となります。そこから先の未来は考えられているんですか?
櫻井 正直、まだ考えられていなくて(笑)。この2020年は、嵐じゃないとできないことを突き詰めていかないと、と思っています。12月31日までに嵐としてやりたいことはいろいろありますが、来年以降のことは、まだ具体的に考えられません。一方、ちょうど年齢も39になるので、やはり同級生を見ても転職する人もいるし、次のステージに行くタイミングなんだな、とは感じます。
──同級生の異業種の人たちとの付き合いで何か学ぶことはありますか。
櫻井 しばらく前、大学1年生の時のクラスメートと飲んだ時は面白かったですね。頻繁に会っている仲間だと、込み入った話はしないんですが、卒業以来はじめて会う連中だと、こんな仕事して、転職して、今こんな仕事していると、15年分ぐらいの人生がそれぞれ分かるので、「ああ、こういう生き方もあるんだ」と刺激になりました。
──今度は何か自分で書くとか、つくるとか、そういう興味はあります?
櫻井 あまりつくり手側にはなれないと思っているのですけど、何かを書くとかはあるかもしれないですね。文章を書くのは幼稚舎の時も、作文が好きだったので。
──さて、今年の紅白歌合戦はたぶん出演しているでしょう。でも、年越しのカウントダウンは出演するのでしょうか(笑)。
櫻井 芸能レポーターみたいな質問ですね(笑)。今ちょうど考えているところですが、それは未定です。大晦日の23時59分59秒までをどう過ごすか。僕らを応援してくれている嵐のファンに向けて何ができるかということが、ファーストプライオリティです。アイデアはいくつもあるのですけれど、どう着地させようか、まだ決まっていないですね。
──ひょっとすると、中学生以来の元旦を両親と迎えるということもあるかもしれない。
櫻井 確かに。いやあ、もう『あしたのジョー』みたいになっていると思いますけどね。燃え尽きて(笑)。
──幼稚舎5、6年でラグビーをやっていて普通部はサッカーでした。どうしてサッカーに転向したんですか。
櫻井 僕らの世代は小学校5年生の時にJリーグ開幕で、もうサッカー一色だったんですよ。でも、幼稚舎はサッカー部がなかったから、皆ラグビー部に行ったんです。
ただ結果として、好きなものしか選ばないよりはよかったですね。ラグビーならではの学びも経験でき、たった2年だけですが、触れることができてよかったなと本当に思っています。
──それが昨年のワールドカップのスペシャルサポーターに結びついたわけですね。「news zero」では、本気で選手に当たっていって、壊されるんじゃないかと思った(笑)。
櫻井 嬉しかったですね。幼稚舎でやっていただけなのでおこがましいですが、やはり心のどこかに、ルーツ校と言われる慶應義塾で、2年間タイガージャージを着てラグビーをかじっていたという思いがあったので、その30年後に自国開催のラグビーワールドカップに携われることは喜びでした。
──ファンの方からの手紙などで今でも覚えているものはありますか。
櫻井 デビューして間もない頃、九州のファンの女の子で入院している子から手紙が来たんです。重病だったんですが、天井に、まだ有名ではなかった僕らのポスターを貼ってくれて、嵐の曲をかけると心電図が反応するというんです。
結果的にお亡くなりになってしまったんですが、このことが自分の中でこの仕事をやる上で、最初に感じたモチベーションになっています。自分たちの歌だったり、音楽だったりが、人の力になるんだと思った最初の出来事でした。それは強烈な原体験ですね。
──いい話ですね。キャリアも20年になりますが、後輩を育てるという意識はありますか。
櫻井 この5年ぐらいでやっとその意識が出てきましたね。育てるというのとはちょっと違いますが、もし自分の経験が何か参考になるなら伝えてあげたいと思っています。「そうしなさい」と言うのではなく、「こんなケースの時は、僕の場合Aパターンだった」と説明すれば、「じゃあ、自分はBにしようかな」とも思えるでしょう。
特に那須(雄登)君(慶應義塾大学1年。ジャニーズJr.「美少年」メンバー)は、今まさに学業と芸能活動を両立しようとしています。でも彼、とても頭いいから、あまり参考にならないかと思いながら話しています(笑)。
──那須君も中等部、塾高から経済学部です。やはり自分の先を行く慶應の先輩にすごく憧れているのを感じますよ。
櫻井 嬉しいのが8割ぐらいですが、ほんのちょっと罪の意識もありますけどね。こんなモデルケースを作ってしまったから。でも、その思いに恥じないようにしなければと励みになりますね。
──これからのますますの活躍をお祈りしています。今日は有り難うございました。
(2020年3月17日収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。