ハーバート・サイモン:義塾を訪れた外国人|義塾を訪れた外国人|三田評論ONLINE

 
来塾し、講演中のサイモン博士
人工知能(AI)のパイオニア。計算機科学者で心理学者。そして経済学者としてノーベル経済学賞を受賞(1978年)。もともとは政治学で博士号を取得。経営学、言語学、社会学にも影響を与えた。
「ご専門は何ですか」
サイモン博士はそう聞かれると、いつも「さーて」と笑う。
1979年8月18日に三田キャンパスにて安西祐一郎氏の司会で行った講演のタイトルは「認知科学の誕生」。複数の分野を融合し新たな学問分野を切り拓こうという意欲的なものであった。
サイモン博士は様々な学問領域に関与しているが、一貫して「人間はどうやって問題を解決するのか」ということを追究していた。そして1950年代に、「どんな問題でも解決できるシステム」(General Problem Solver)を発表して当時の研究者たちの度肝を抜いた。あらゆる問題を、多数の候補の中からひとつの正解を見つける「探索問題」と置き換え、そのための汎用のコンピュータプログラムを提案したのである。つまり、世の中のどんな問題であっても、きちんと定義さえできれば、このプログラムを用いて解を見つけることができることになる。
ここで重要なことは、サイモン博士は必ずしも「最適解」を見つけることを目的としていない。最適解でなくとも「満足できる解」を見つければ人間はそれでハッピーだからである。例えば、スーパーの駐車場ではなるべく店の入り口に近いスペースを探すが、まあまあ近い場所が空いていたら、そこに駐車して満足するであろう。もっと近いスペースが空いているかもしれないにもかかわらず、それ以上良い場所を探そうとしない。満足したからである。そして、満足する解を見つけるために人間は、洗練された数学的最適化手法など使わず、アバウトで場当たり的な思考を行う、というのである。人間の本質をズバリついた理論であり、ここまできっぱりと言われると逆に清々しい。
人工知能研究は、スタンフォード大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)、そしてサイモン博士のいるカーネギーメロン大学(CMU)が御三家とされていた。スタンフォードとMITでは計算機科学の延長としての研究だったのに対し、CMUでは人間のアバウトな感覚も重要視し、心理学と計算機科学を融合したような研究が主流だった。サイモン博士はのちにこれを「認知科学」と名付けたのである。
歴史を振り返ると、1950年代にこの世にコンピュータが台頭したとき、その圧倒的な計算速度と記憶容量から、近い将来必ず人間の知能を超えるだろうと誰しもが考え、人工知能(AI)という学問に大きな期待が寄せられた。例えば、フランス語から英語への自動翻訳などは2~3年で簡単に実現すると考えられていたし、チェスに関しては、サイモン博士は「10年以内に人間の世界チャンピオンを倒すだろう」という予言をしていた。
しかし1960年代半ばを過ぎても、自動翻訳は一向に完成せず、コンピュータのチェスプログラムも世界チャンピオンはおろか、アマチュアの実力にも遠く及ばなかった。その結果、サイモン博士も一時「ほらふきサイモン」などと呼ばれたこともあったのである。
こうして1960年代後半には、人工知能は事実上「失敗した学問」という烙印を押された。人工知能は近い将来に実用化の望みがないとされ、「役に立たない学問」として研究費も大幅に削減され冬の時代になる。しかし、多くの人工知能研究者が分野を変更していく中、サイモン博士をはじめとするCMUではめげることなく、1970年代になっても精力的に人工知能の研究を進めていたのである。そもそもサイモン博士は、役に立つとか実用化できそうだとかを研究のモチベーションとしていない。人間の思考過程がいったいどうなっているのかを理解したい、という知的好奇心が原動力だったのである。
私自身もそんなCMUの理念に共感と興味を覚え、塾工学部卒業後にCMUの大学院に留学し、「人工知能の分野で博士号を取るんだ」という、当時の私にしてはとてつもなく大きな夢を抱いて渡米したのだった。
サイモン博士と初めて会ったのは、CMUに入学した1981年夏だった。まず私はアポイントメントを取るために博士に電子メールを出して自己紹介をすると、翌日サイモン博士本人からメールの返事がきた。驚いたことに最初の一行はローマ字で日本語が書かれていた。
「トミタサン、ヨクイラッシャイマシタ」
その後は英語だったが、
「来週の火曜日二時に私のオフィスへ来て下さい」 とあった。翌週の火曜日、私はやや緊張した面もちでサイモン博士のオフィスを訪れると、60代前半の立派な体格をした紳士がにこやかな顔で出迎えてくれた。そして片言の日本語で、
「コンニチワ、ハジメマシテ、Herb Simon デス」 と右手を差し出した。その後は英語で、
「昔はもっと日本語を話せたんだけど、長い間使ってなかったのでだいぶ忘れてしまった。とても残念です」 と照れくさそうに苦笑した。博士の座っている後ろの壁の一角にひとつの賞状が飾ってある。よく見るとノーベル賞の賞状だ。意外と地味なのが印象的だった。小さな額に入って無造作に壁に掛かっていた。私が見入っていると、
「もっとおもしろい物を見せてあげましょう」 と言ってある物を見せてくれた。それは「宰問翔人・・・・」と書かれた表札だった。日本で講演したときにもらったと言う。これで「サイモン・ハーバート」と読み、「大きな問題に羽ばたく人」という意味があるそうだ。
よく話を聞いてみるとサイモン博士は日本語の他にもドイツ語や中国語など数カ国語を話すと言う。
「いや、話せた、と言うべきだろう」 とあわてて訂正した後、
「外国語を勉強することは楽しい。それに人間が言葉をしゃべるメカニズムはいまだに謎だらけだ。人間の言葉の構造をよく調べれば、人間の思考のプロセスを解き明かす鍵が見つかるだろう」 と人工知能の大家らしい言葉を述べた。ふと机の上を見ると中国語で書かれたプリントが置いてある。
「これはなんですか」 と私が聞くと、サイモン博士は照れくさそうに、
「私は(CMUに隣接する)ピッツバーグ大学で中国語の授業を受けています」 と言った。ノーベル賞を取った学者が大学で講義を受けるというのが意外だったので、思わず、
「教員のための特別講義があるのですか?」と聞いた。すると、それは学部の2年生のための科目で、他に20人ほどの大学生が履修していると言う。
「若い人を対象としているので進度が早くて大変です。このプリントは明日までの宿題です。明日までにやっていかないと先生に怒られる」と茶目っけたっぷりに笑った。ひと味違う先生だった。
サイモン博士夫妻と筆者夫妻(1985年)
そして私がCMUに留学した1980年代に、再び人工知能研究のブームが到来した。日本では通産省の第5世代コンピュータプロジェクトなどが火つけ役になり、「人工知能学会」も誕生し、「エキスパートシステム」と称する人工知能の実用システムも登場、各企業も人工知能に本腰を入れ始める。ついには「人工知能つきエアコン」「AIつき電子ジャー」といった〝AI商品〟が市場に登場する。コンピュータチェスの実力も一九八八年にはイギリスの女流チャンピオンを破り、その後世界チャンピオンにも勝った。サイモン博士の予言は、時間はかかったものの、本質的には正しかったことが証明され、「ほらふきサイモン」のニックネームも返上したのである。
しかし1990年代後半になると、AIへの過度の期待は再び失望に変わる。アニメ「鉄腕アトム」の物語上の誕生日は2002年であるが、AIの技術も着実に進歩はしていたとはいうものの、アトムのような知的ロボットの完成からは程遠かった。そして研究費が大幅に削減され、2回目の「AI冬の時代」を迎えるのである。
そして2010年代に入ると、「ディープラーニング」や「アルファ碁」の登場でまたしても世の期待が高まり、第3次AIブームが到来。「2045年にAIは人間の知能を超える」と予言する未来学者も登場し、今人工知能は大いに注目を浴びている。3回目のAI冬の時代が来るかどうかはわからないが、それにしても人工知能は「流行のアップダウンが激しい学問分野」であることは間違いない。
そんな中においてサイモン博士は、ブームの時も冬の時代でも、一貫して着実にAI研究を進めてきた。そのモチベーションは、役に立つからとか研究費がつくからとかではなく、「人間の思考過程の謎を解き明かしたい」というただ純粋な好奇心だったからである。
2001年2月に84歳で幕を閉じたサイモン博士の人生は、「学問分野に縛られるな」と「流行に惑わされるな」という研究者としてとても重要で貴重な心得を示唆してくれた。そして誰に対しても決して威張らず生涯学び続ける姿勢は、私にとって心から尊敬できる実に偉大な師であった。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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