教えない。学びあいの場をつくる。

ありえる楽考は、教えないということを標榜しています。
 
理由は、教えられると学べなくなると考えているからです。
今日的な学校教育を経た人が、主体性に欠けるのは、教えられてきたからではないかと思うのです。ものごとには答えがあって、それを手っ取り早く答えを教えてもらうものだと。その方が早く、効率が良い。
 
 
徒弟制度でよくある「背中を見て学べ」は古臭いという批判は、工業社会的な世界観ではないかと考えています。
 
この教育される人の世界観は、消費する人の世界観と近いのではないか?
 
 
価値共創する人は、自ら問いをたて、観察し、仮説を立て、試し、考察し、対話する人です。
そういう意味で、教えないというのは、場への与贈制と同じく、消費者から価値創造者へと世界観を変えたいという願いの現れでもあります。
 
ありえる楽考では、最初に、何もインストラクションをしません。
ただ、スクールタクトを使っている効果で、他の人が書いているものを見て、見様見真似で始めます。観察し、仮説を立ててとりあえず、やってみることになります。
 
これであってますか?書き方がわからないと不満の声が聞こえますが、
この段階を経て、本当に教えてくれないんだと諦めて、自分で試行錯誤し始めます。
 
 
子どもの微笑ましくもあり、時として辟易する「なぜ」「なに」。
新しいものに取り組み、何でも自分でやろうとします。代わりにやろうとすると怒られてしまいます。 子どものころに溢れていたあの主体性や創造性は、いったい、いつ、どのようにして失われていったのでしょうか?
 
人には本来「自分で見つけたい」という欲求が あります。子どもの頃は十分にあった試行錯誤する時間が学校に行くようになると減ってゆきます。習い事や塾などやることがたくさんです。今日の学校で教えられていることのほとんどは答えがあることです。問いには答えがあるという世界観が、手っ取り早く答えを知ることを求め、答えを教えられることで考える力や問い続ける態度が失われてしまったのではないでしょうか?
ピアジェ効果とも言われています。

教えようとする人もか多くいます。なぜなら、教えることで自分が「優位」に立てると思っている。そして、優秀であることを周囲に認めさせたい。 あるいは、答えを教えて簡単にすませたいという 「怠惰」もあることでしょう。
 
手っ取り早く答えを教えることで収益をあげる教育産業と本質を考えるよりもテストの点をあげさえすれば良いのだという短期の視点の結果主義があわさって、容易には変えられない状況がつくりだされています。
とはいえ、単に教えないだけだと、気づくまで時間がかかり、学ぶ気にならないこともあるでしょう。不思議に思うことや、一見関係なさそうな因果関係など世界が広がる知識や経験を適切なタイミングでするには、どうしたらいいのでしょうか?
何らかのキッカケがあることで促進できるのではないかと考えています。注意を向けさせる<刺激>が重要なのです。それは媒介と呼ばれます。しかも、その人を観察して、気づくキッカケになるように絶妙のタイミングで。それができるようになると発見する楽しさ、学びあう喜びを知る組織に近づきます。 自分がそうするだけではなく、そうしてもらっ た人が、その先の人にもそうしてゆく連鎖をつくってゆく。だって、そうした方がおもしろいじゃないですかっていう理由で。
 
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人才が輩出されてくる場には、そういう仕組み仕掛けをつくって導く人がいます。そういう気づきによって導く人になることができたら、どんな場であっても、一緒にいて欲しいと思われる人になることでしょう。
 
背中を見て学ぶ」ことの有効性は、様々なプロスポーツで活躍している選手が、兄や姉に憧れて自分からやりたいと取り組んだ弟や妹であることから傍証されるのではないでしょうか?
野球のイチロー選手やサッカーの遠藤選手、スケートの浅田真央選手、ゴルフの宮里選手などがそうですね。
 
このように場にいて、同じ空気を吸う環境えから学ぶことは正統的周辺参加やコミュニティオブプラクティスと呼ばれます。
 
一生継続する「研究」なので、急ぐよりも、楽しくて仕方ない、寝ても覚めても考えちゃうという状態になることを自分のペースで掴んでいただければと考えています。
 
 
正統的周辺参加(LPP:Legitimate peripheral participation)とは、「社会な実践共同体への参加
の度合いを増すこと」が学習であると捉える考え方。
 
(a)学習を個人の頭の中での知的能力や情報処理過程にすべて帰着させることなく、つねに外界や他者、さらに共同体(コミュニティ)との絶えざる相互交渉とみなす。・より豊かに関係がもてる・Merging(融合)
(b) 学習者を知識獲得者としてではなく、全人格(whole person)とみなし、学習によって変わるのは獲得される特定の知識や技能ではなく、「一人前になる」というアイデンティティ形成とみなす。・「可能的世界」に加わる
(c)学習を成立させているのは、記憶、思考、課題解決、スキルの反復練習といった脱文脈化した認知的・技能的作業ではなく、他者とともに行う協同的で、しかも共同体のなかでの「手応え」として価値や意義が創発的に返ってくるような、具体的な実践活動であるとする。・意味を感じる
(d)学習を実践共同体への参加過程であるとし、そこから、学習者は必然的に新参者同士、古参者ら、さらには熟達者(一人前)らとの権力構造の制約 を受けつつ、それらとのコンフリクトを通しての共同体全体の「再生産(つくりかえ)」と成員間の「置換(世代交代)」をもたらすものであるとする。・「新参者が」云々のコンフリクトを通じて
(e)学習を動機づけているのは、単純な「外的報酬」でもないし、「好奇心」や「効力感」のような「内在的な(intrinsic)」な動因でもな い。むしろ、学習者が実践共同体に全人格的に「参加」しつつある実感と、「今、ここに」何かしら共有の場が開かれているという予見によって、引き出され展 開されていく実践活動の、社会的関係性そのものにある。・難しく言えば「自治」/相互作用的←「Empowerment」
(f) したがって、学習をつねに「進める」ものは、予見を可能にする共同体の十全的活動へのアクセスであり、学習者の参加の軌道に即しての、意味のネットワークの広がり、すなわち、「文化的透明性」にあるとする。
 

コミュニティ・オブ・プラクティス

実践共同体あるいは実践コミュニティ(community of practice)とは、参加者が、ある集団への具体的な参加を通 して知識と技巧の修得が可能になる場のことである。また、そのような参加者の社会的実践がくりひろげられる場も総称して、実践共同体あるいは実践コミュニティ(community of practice)という。
徒弟制にもとづく伝統的職場、近代社会制度としての職場や学校などでみられる、集団への参与を通 して知識と技巧の修得が可能になる社会的実践がくりひろげられる場を実践共同体あるいは実践コミュニティ(community of practica)という。ジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガー(1993)による用語。
人びとは実践共同体において、さまざまな役割を担い行為することで、実践共同体を維持することに 貢献する。その際の学習とは、知能や技能を個人が習得することではなく(→学習の古典的定 義)、実践共同体への参加を通して得られる役割の変化や過程そのものである。